斉藤孝(『声に出して読みたい日本語』著者)を嫌いな人って結構いるよね?
こんにち、fkです。
今日は僕の苦手な斎藤孝について。
苦手と言いつつやるなあと思う部分はあるんですよ。
スマートなルックスでインテリ然とした容姿をして、知力にやや不安のある、中途半端に向学心を持った人たちをマーケティングするのに、これ以上ない成功を収めている人だなと思います。
明治大学教授で教育学を専門としている経歴も非常に効果的です。
最新の著作は『大人の語彙力ノート 誰からも「できる! 」と思われる』というタイトルで、中途半端に勉強したい人たちの心にド直球を投げていますね。
『声に出して読みたい日本語』だけは、日本語を声に出してみるというやや新しい価値を提起をした点で優れているかなとは思います。
ただそれだけです。
後の著作はいずれもやっていることが凡人マーケティングです。何も新しさがありません。
凡人をマーケティングしている、それだけなら斎藤孝をわざわざ苦手と思うこともなかったかもしれません。
僕がこの人をゴミ屑だと判定したのは、この人がとあるニュース番組でのコメンテーターの仕事をしていた時です。
彼がコメントしたのは、思い出すのも痛ましい『川崎市中1男子生徒殺害事件』についての意見を求められた時でした。
いじめがエスカレートし、殺害に至った事件ですが、彼が言ったのは
「この加害者の少年たちには理性がありませんね。人を殺してはいけないという理性が欠けているのだと思います。もっと論語を読むなどを通して、理性を育む教育が必要ですね。」
という超他人事みたいな意見でした。
いや、すでに道徳とか何やらで頑張って教育した結果のこれじゃないんかと。
どうやって加害者のような少年たちに論語読ませるの?教科書なんてろくに読まない中学生、そこらにいっぱいいるよ?と
さらには論語やらを読ませて君の言う「理性」がつくと保証があるんかと。
シンプルにこの場で斎藤が言った意見は、安全圏から加害者とされる悪い属性を持った人たちを攻撃するだけの意見だったわけです。
加害者がどうやっていじめをエスカレートさせたのか、その背景、前後関係にはどういう構造があったのかを慮ることは一切せず、
悪いことをしたらとりあえず「論語を読め。」と言うのが斉藤孝の仕事でした。
これが仮にも教育学者を標榜する人間の仕事かと。
「いやあ、難しい事件ですね。こういう事態に教育に何ができるのか私にもまだ分かりません。」くらい、分からないことを正直に言えるならかえって尊敬するところがある。
「論語読め」って逃げだろう。事件の重さに対してスタンスが軽すぎるだろう。
真面目にコメントできないなら、こんな仕事最初っから受けるな、
もしくは教育学者の肩書はずせ。著作家とかにしろ。
斉藤孝のこういう不真面目な仕事は、教育、ニュースの視聴者に対して、何の生産性も持たないばかりか、かえって有害な影響があります。
単純に教育への不信を煽るばかりか、ただ加害者を責めて思考停止するという従来の世論的な風潮がさらに強化されてしまう面があります。
まあここまで頭の悪い斉藤孝の意見を真に受ける人は、そう多くないんじゃないかなとは思います。
ましてや僕ら20代辺りの若い世代でこういう意見を鵜呑みにする人は皆無なんじゃないかな。
それでもこの程度の有害意見は言論空間に存在するだけで、不浄ですので、
斎藤孝先生には早急に仕事を選んでほしいなと思います。
本だけ書いてればいいんじゃないかな。
以上が斉藤孝さんに対する僕の意見でした。
同じく加害者に対する考え方で、教育学者の中からでも優れた著作はありました。
岡本茂樹『反省させると犯罪者になります』という著書です。
新書で3冊ほど著作がありましたが、いずれも素晴らしかったです。
要は加害者はただ反省するべしとして、延々と自己批判を是とした反省文を書かせるといった、ただの厳罰主義は更生に対して何の効果もないということが書かれてあります。
さらには、加害者がその事件を起こすに至った経緯を、加害者と一緒になって考える、受け止めるという流れが更生には必要だとしています。
上辺の反省だけを繰り返させても、根本的な構造が変わらないので更生には至らないということです。
上辺だけの「論語を読め。」ではダメだということです。
先日書店に行ってみたら、斎藤孝の新著が平積みにされていました。
ウッと思って、一緒にいたINFJの彼女に
「斎藤孝ってどう思う?俺苦手なんだけど。」と聞いてみると、
「まあ、くだらないよね。」と言っていました。素晴らしい感性ですね。